ロヒンギャ難民被害調査報告(杉江あい氏からの寄稿)
(2018年2月にロヒンギャキャンプを訪問した杉江あい氏が、被害調査報告をジュマ・ネットに寄稿くださいましたので、ここに掲載させていただきます)
2018年3月,ミャンマーではロヒンギャの人々に対する弾圧が今なお続けられています。ロヒンギャの人々はどのような被害に遭っているのでしょうか。2017年8月以降にバングラデシュに避難してきた人たち,そのなかでも女性たちに 話を聞いてみました。
どこのキャンプに行って聞いてみても,ミャンマー国軍に夫が殺害されたり,連行されたりして,女手ひとつで家族を支えているという家庭は,少なくとも1割程度あるそうです。私が聞き取りをしたノヤパラ・キャンプの一画では,47世帯中10世帯に夫や兄弟を亡くした女性たちがいました。
キャンプに設置されたトイレ.屋根のないタンク式のトイレを約40世帯が共同で使用
しているため,雨が1~2日間降っただけで,屎尿があふれ出てしまう
そのなかの1人,ヌル・ファテマさん(27歳)は,ミャンマーの兵士に銃撃され,夫を亡くしました。今は救援物資の食料を売って,5人の子どもを育てています。一番上の息子(13歳)は近くにある林で木を切り,地元の人が料理で使う燃料として売っています。1日70~90円ほどの稼ぎですが,現金収入がごく限られている難民の家族にとっては,貴重な収入になります。一番下の娘はまだ1歳の乳児です。ファテマさんが救援物資を取りに行ったり,市場に行ったりしなければならないときには,まだ幼い上の子たちが世話をしています。ファテマさんは,「夫がいないので子どもの教育が心配」と不安そうに話しました。
ミャンマー国軍は,バングラデシュを対岸に臨むナフ川沿岸のほとんどの村を焼き討ちにしました。この焼き討ちによって夫を亡くした人もいました。
ジヒダ・ベグムさん(60歳)は,年老いた夫と2人で暮らしていました。ミャンマー国軍がジヒダさんの村を襲ったとき,ジヒダさんはかろうじて燃えさかる家屋から抜け出すことができましたが,夫は逃げ遅れて亡くなってしまいました。ジヒダさん夫妻には1人娘のミノラさんがいます。しかし,その夫もミャンマー国軍に銃で撃たれて亡くなり,ミノラさんもバングラデシュに避難したがってますが,ミャンマー側が渡航を禁じているため,来ることができないでいます。ミノラさんは,裕福な人の家で使用人として働き,何とか生き延びているそうです。
ミャンマー国軍の銃撃や焼き討ちで命を落とした人たち,そして避難したくても来られない人たち――。その一方で,ミャンマー国軍の弾圧から何とか逃げ延びたものの,そこで家族を失った人もいます。
ヌル・ベグムさん(35歳)もまた,ミャンマー国軍によって財産もろとも家を焼かれ,バングラデシュへと向かいました。夫と5人の子どもを連れて,バングラデシュに渡るボートに乗り込んだのですが,そこで夫と4人の子どもたちがナフ川に投げ出され,溺れて亡くなってしまいました。ヌルさんは,地元住民の家で家事を手伝ったり,燃料になる落ち葉を集めて売ったりして,生き残った8歳の息子とともに暮らしています。
ヌルさんは家族を失いつつも何とか生き延びました。しかし,ミャンマー国軍の掃討作戦がはじまった8月25日から4~5日間は,バングラデシュ政府がロヒンギャ難民の上陸を認めなかったため,命からがら避難してきた何千人という人々が,ナフ川で見殺しにされました。ナフ川からは,子どもを含む多くの遺体が流れ着いたといいます。
今,バングラデシュのキャンプで暮らしているロヒンギャ難民の人々がそこに至るまでに,多くの命が失われました。バングラデシュでは乾期が終わり,雨が降り始める3月。ロヒンギャ難民キャンプの多くは木のほとんどない丘陵地に位置しており,土砂災害の危険性にさらされています。また,低地のキャンプはすでに水没してしまったという報道も出ており,衛生状態の悪化が懸念されます。これ以上の犠牲者を出さないために,災害対策や衛生管理,安全な水の確保が急務の課題となっています。
58万人以上のロヒンギャ難民が住む巨大キャンプ(クトゥパロン)の様子。
傾斜がきつく,地面が乾いている乾期でさえも転びやすい
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
日本学術振興会特別研究員PD
杉江あい