54325ロヒンギャ難民キャンプの内と外:子供たちは辛うじて生きているc7dd9662b0b62eda00bedf62684d3df9514.JPGミャンマー軍に襲われて夫を失ったハミダ・ベゴムさん。子供たちを連れてロヒンギャ難民キャンプで辛い生活を送っている。 ミャンマーからバングラデシュに避難してきたロヒンギャ難民の住むバルカリ・キャンプの「マジ」を探している時に、あばら小屋からボロボロの腰巻きとブラウスを着たハミダ・ベゴムさんが出てきた。傍に抱えた赤ん坊は裸のまま。手の指を掴むもう1人の子供も何も身につけていない。目のあった瞬間から彼女は急いで私たちをマジのところに案内してくれた。 「マジ」は、ロヒンギャの言葉でリーダーを意味する。バルカリ村のパーン・バザールにある未登録のロヒンギャ難民キャンプで人々の面倒を見る責任を引き受けているのは、ここのマジを務めるモハマド・ホセインさん。昨年の10月9日以降に約3万2千800人のロヒンギャ人がナフ川を渡って、ここに避難したと言われている。しかしバングラデシュ国境警備隊(BGB)の非公式のレポートによれば、その人数は4万8千883人だという。国際移住機関(IMO)の推計では、最も多くの人が逃れてきたのは、このウキア郡バルカリ地区らしい。クトゥパロンとテクナフ郡のレダの古い未登録キャンプに避難した人たちも大勢いるという。 青いプラスチック・シーツと竹を編んだ壁で出来たあばら小屋を次々と通りながら、「マジ」 を探し続ける。そうしながらハミダさんは少しずつ私の質問に答えてくれた。彼女の夫はミャンマーの軍に銃撃されて殺された。遺体も引き取ることができなかった。数ヶ月前に全てのお金を持って2人の息子を連れて彼女はナフ川を渡り、バングラデシュにやってきた。自分で家を建てることができなかったため、マジに同居させてもらっている。 1つの部屋に9人がぎゅうぎゅう詰めとなって暮らしている。部屋は奥行きが12フィート、幅が7フィートほどしかない。それも台風「モラ」に吹き飛ばされてしまった。そのときは難民キャンプの他の人たちと同じように彼女も子供と一緒に丘の上に避難したという。 話をしながら交差点を渡った。老人が青年をひどく殴っているのが見えた。他の人たちが彼らを囲んで様子を見ている。老人は青年に金を要求している。 その時に「マジ」が姿を現した。仲裁をするためにやってきたのだ。「これはたいした問題ではない、いつもあることだ」と彼は言った。貧しい人たちだ。どういう状況かと聞かれたら、あばら小屋で何とか暮らしているとしか言いようがない。世界食糧計画が各世帯に25キロずつコメを配給している。しかし各世帯には8人から12人ほどの人たちが居る。そのお米だけでは暮らしていけない。 一番苦しんでいるのは子供たちだ。しかし、まだ死んでいない。何とか生きている。 コックスバザール県知事のアリ・ホセイン氏はロヒンギャ難民の人数の調査がまだ続いていると言っている。ミャンマーから逃れてきた難民の多くは子供たちである。ロヒンギャは大家族だ。ほとんどの家族には5人以上の子供が居る。 IMG_5569.jpg(ロヒンギャ難民キャンプの子どもたち(撮影:久保田弘信)(本文とこの写真は関係ありません) ハミダさんの2人の息子のような乳幼児から4~5歳ぐらいの子供まで、服を着ている子供はほとんどいない。体中にできものができた子供たちも所々見かける。小屋の中から子どもたちが咳をする恐ろしい音が聞こえてくる。もう少し年齢の高い子供たちはあちらこちら歩き回っている。広場で用を足す子供達も見かける。話しかけてみると多くの保護者達は子供が生き残っていることを喜んでいる様子だ。もう少し裕福だった家庭は子供の未来を心配している。 アブ・カラムさんと話をした。「お元気ですか」と尋ねると「元気だ」と答えた。妊娠中の妹さんが目の前で殺されたと彼は言う。ちょうど陣痛で苦しんでいた時、彼女の周りには産婆さんなど7~8人の人たちがいたが、誰も彼女を軍の手から救い出すことができなかった。その後、彼は2歳の息子と妊娠中の妻を連れて逃げてきたという。子供とその母の生活をどのように支えているのか、何を食べさせているのかと聞くと、昨夜はご飯を水につけて食べたと言う。家には塩もない。 アブ・カラムさんは日雇い労働をしている。ロヒンギャたちはベンガル人よりも少ない日当で働かなければならない。近くの村に働きに呼ばれるらしい。 100~150タカほど稼いだ日には野菜や油、塩を買って帰り、子供とその母親に食べさせるという。 難民キャンプの人々、とりわけ子供たちが何を食べているのかを知りたくてキャンプに1つだけある店の人に尋ねた。店の主はアブドゥル・ハリムさん。店の横の鳥かごに鶏が二羽いるのが見える。店の前の小さな箱には、青唐辛子、苦瓜、キュウリ、じゃがいも、干し魚が入っている。売れ行きについて訊くとここでは魚は売れないと彼は言う。 4万人が暮らすこの地域で先週は鶏が十羽しか売れなかったらしい。よく売れるものは1キロ15タカの安いじゃがいも、卵、青唐辛子だという。各世帯は1度に多くても4個のタマゴしか買わない。 8人から12人いる大家族でも、それをじゃがいもと一緒に炒め、みんなで食べる。いちばんよく売れるのは青唐辛子。彼によれば子供1人が1度に食べる青唐辛子の量はベンガル人の家族が1日に食べる量を超えるという。カレーは辛いほど安上がりだ。だからこういう状況だと彼は考える。こんなに多くの子供が居るバルカリで牛乳はどれくらい売れるのかと聞いてみた。彼は粉ミルクの入った袋を持ってきて見せてくれた。彼によればある時、世界食糧計画からの米の配給が止まってしまったと言う。多くの人が借金をして米を買っていた。返済に困り、寄付された粉ミルクのパッケージを渡され、許してくれと頼まれたそうだ。 国際移住機関の分室長、ソンジュクタ・シャハニ氏は、先週の土曜日にプロトム・アロ紙に対して次のように語っている:「命を救うのが私たちの最初の仕事。そのあとは他の問題にも対処している。バングラデシュ政府は非公式な教育活動を開始することを許可している。合計35カ所の学習センターが運営されている。その一つが現在バルカリで運営されている。台風で米が吹き飛ばされてしまった。WFPが米と高カロリー・ビスケットを配布している。私たちはまずは食料の安全保障を確保したいと思っている。ユニセフは長期間、子供の健康をはじめ、様々な事柄に関して面倒を見ている。」 20170225_132546.jpg難民キャンプの家々 父親が亡くなったか、父親が身体障害者になった子供たちは状況が特に悪い。ジアウル・ラーマンさんは、手が不自由だ。ライフルで打たれて手をバラバラにされた。彼は村で物乞いをしている。物乞いで得たものを子供に食べさせている。エビ商人のベラールさんの足には5ヶ月前から包帯が巻いてある。痛みがひどくなるとパラセタモールを飲む。手術をする必要があるが、お金がないので、このような状態のままだ。叔母のヌールジャハン・ベゴムさんが彼の面倒を見ている。いつまで物乞いをするのか、子供たちをどのように養うのかと聞くと、 ベラールさんの62歳になる叔母のヌール・ジャハンさんが答える。彼女は14の田んぼを持っていた。捨ててきた家のことを思うと泣けてしまうと言う。彼女は6人の子供の母親。いちばん上の子供を軍に殺された。ヌール・ジャハンさんによれば「その日、軍人たちは全ての男性を外に追いやった。私と娘、嫁、夫の姉妹などみんな部屋の中に座っていた。私は年寄りだが、軍の手を免れることができなかった。下の息子の嫁は特に美人だ。1人の兵士が見張り、もう1人が嫁をレイプした。昔、私はアウンサンスーチーの父親に投票するために遠くまで走ったことがあった。しかし何を得たと言うのか。私の孫たちは、そこで安全に暮らせるだろうか。それでも私は戻りたい。」 ヌール・ジャハンさんの息子の嫁にも娘が1人いる。もう少し大きくなれば嫁にやることを考えているという。 多くのことが起こった後も国に帰りたいと言う人達が居る。ミャンマーの135の少数民族の人々が皆、いつかは平等な権利を得ると彼らは夢見ている。子どもたちが自分たちと同じような人生を歩まないことを彼らは望んでいる。ヌルール・アロムさんもその1人だ。彼はブチドンの住民だった。医者だった父親と教員だった叔父と兄は、いろんな時に政府の役人にかり出された。しかし彼らは土を食べなければならないぐらい貧しかった。今回はさすがに耐え兼ねたという。 5歳の娘を連れてここに逃げてきた。ヌルール・アロムさんによれば、ミャンマーではイスラム教徒は5年生以上の教育を受ける機会がないという。あとはマドラサでの教育しかない。コミュニティーには教育を受けた人はほとんどいない。難民キャンプでも子供達の読み書きや教育の機会は少ない 。彼は自分の知っていることを娘に教えているが、その後どうなるかはわからないという。この人生は誰からも認められない苦悩の人生であることだけを彼は知っている。
ミャンマー軍に襲われて夫を失ったハミダ・ベゴムさん。子供たちを連れてロヒンギャ難民キャンプで辛い生活を送っている。
ミャンマーからバングラデシュに避難してきたロヒンギャ難民の住むバルカリ・キャンプの「マジ」を探している時に、あばら小屋からボロボロの腰巻きとブラウスを着たハミダ・ベゴムさんが出てきた。傍に抱えた赤ん坊は裸のまま。手の指を掴むもう1人の子供も何も身につけていない。目のあった瞬間から彼女は急いで私たちをマジのところに案内してくれた。
「マジ」は、ロヒンギャの言葉でリーダーを意味する。バルカリ村のパーン・バザールにある未登録のロヒンギャ難民キャンプで人々の面倒を見る責任を引き受けているのは、ここのマジを務めるモハマド・ホセインさん。昨年の10月9日以降に約3万2千800人のロヒンギャ人がナフ川を渡って、ここに避難したと言われている。しかしバングラデシュ国境警備隊(BGB)の非公式のレポートによれば、その人数は4万8千883人だという。国際移住機関(IMO)の推計では、最も多くの人が逃れてきたのは、このウキア郡バルカリ地区らしい。クトゥパロンとテクナフ郡のレダの古い未登録キャンプに避難した人たちも大勢いるという。
青いプラスチック・シーツと竹を編んだ壁で出来たあばら小屋を次々と通りながら、「マジ」
を探し続ける。そうしながらハミダさんは少しずつ私の質問に答えてくれた。彼女の夫はミャンマーの軍に銃撃されて殺された。遺体も引き取ることができなかった。数ヶ月前に全てのお金を持って2人の息子を連れて彼女はナフ川を渡り、バングラデシュにやってきた。自分で家を建てることができなかったため、マジに同居させてもらっている。 1つの部屋に9人がぎゅうぎゅう詰めとなって暮らしている。部屋は奥行きが12フィート、幅が7フィートほどしかない。それも台風「モラ」に吹き飛ばされてしまった。そのときは難民キャンプの他の人たちと同じように彼女も子供と一緒に丘の上に避難したという。
話をしながら交差点を渡った。老人が青年をひどく殴っているのが見えた。他の人たちが彼らを囲んで様子を見ている。老人は青年に金を要求している。
その時に「マジ」が姿を現した。仲裁をするためにやってきたのだ。「これはたいした問題ではない、いつもあることだ」と彼は言った。貧しい人たちだ。どういう状況かと聞かれたら、あばら小屋で何とか暮らしているとしか言いようがない。世界食糧計画が各世帯に25キロずつコメを配給している。しかし各世帯には8人から12人ほどの人たちが居る。そのお米だけでは暮らしていけない。 一番苦しんでいるのは子供たちだ。しかし、まだ死んでいない。何とか生きている。
コックスバザール県知事のアリ・ホセイン氏はロヒンギャ難民の人数の調査がまだ続いていると言っている。ミャンマーから逃れてきた難民の多くは子供たちである。ロヒンギャは大家族だ。ほとんどの家族には5人以上の子供が居る。
(ロヒンギャ難民キャンプの子どもたち(撮影:久保田弘信)(本文とこの写真は関係ありません)
ハミダさんの2人の息子のような乳幼児から4~5歳ぐらいの子供まで、服を着ている子供はほとんどいない。体中にできものができた子供たちも所々見かける。小屋の中から子どもたちが咳をする恐ろしい音が聞こえてくる。もう少し年齢の高い子供たちはあちらこちら歩き回っている。広場で用を足す子供達も見かける。話しかけてみると多くの保護者達は子供が生き残っていることを喜んでいる様子だ。もう少し裕福だった家庭は子供の未来を心配している。
アブ・カラムさんと話をした。「お元気ですか」と尋ねると「元気だ」と答えた。妊娠中の妹さんが目の前で殺されたと彼は言う。ちょうど陣痛で苦しんでいた時、彼女の周りには産婆さんなど7~8人の人たちがいたが、誰も彼女を軍の手から救い出すことができなかった。その後、彼は2歳の息子と妊娠中の妻を連れて逃げてきたという。子供とその母の生活をどのように支えているのか、何を食べさせているのかと聞くと、昨夜はご飯を水につけて食べたと言う。家には塩もない。
アブ・カラムさんは日雇い労働をしている。ロヒンギャたちはベンガル人よりも少ない日当で働かなければならない。近くの村に働きに呼ばれるらしい。 100~150タカほど稼いだ日には野菜や油、塩を買って帰り、子供とその母親に食べさせるという。
難民キャンプの人々、とりわけ子供たちが何を食べているのかを知りたくてキャンプに1つだけある店の人に尋ねた。店の主はアブドゥル・ハリムさん。店の横の鳥かごに鶏が二羽いるのが見える。店の前の小さな箱には、青唐辛子、苦瓜、キュウリ、じゃがいも、干し魚が入っている。売れ行きについて訊くとここでは魚は売れないと彼は言う。 4万人が暮らすこの地域で先週は鶏が十羽しか売れなかったらしい。よく売れるものは1キロ15タカの安いじゃがいも、卵、青唐辛子だという。各世帯は1度に多くても4個のタマゴしか買わない。 8人から12人いる大家族でも、それをじゃがいもと一緒に炒め、みんなで食べる。いちばんよく売れるのは青唐辛子。彼によれば子供1人が1度に食べる青唐辛子の量はベンガル人の家族が1日に食べる量を超えるという。カレーは辛いほど安上がりだ。だからこういう状況だと彼は考える。こんなに多くの子供が居るバルカリで牛乳はどれくらい売れるのかと聞いてみた。彼は粉ミルクの入った袋を持ってきて見せてくれた。彼によればある時、世界食糧計画からの米の配給が止まってしまったと言う。多くの人が借金をして米を買っていた。返済に困り、寄付された粉ミルクのパッケージを渡され、許してくれと頼まれたそうだ。
国際移住機関の分室長、ソンジュクタ・シャハニ氏は、先週の土曜日にプロトム・アロ紙に対して次のように語っている:「命を救うのが私たちの最初の仕事。そのあとは他の問題にも対処している。バングラデシュ政府は非公式な教育活動を開始することを許可している。合計35カ所の学習センターが運営されている。その一つが現在バルカリで運営されている。台風で米が吹き飛ばされてしまった。WFPが米と高カロリー・ビスケットを配布している。私たちはまずは食料の安全保障を確保したいと思っている。ユニセフは長期間、子供の健康をはじめ、様々な事柄に関して面倒を見ている。」
難民キャンプの家々
父親が亡くなったか、父親が身体障害者になった子供たちは状況が特に悪い。ジアウル・ラーマンさんは、手が不自由だ。ライフルで打たれて手をバラバラにされた。彼は村で物乞いをしている。物乞いで得たものを子供に食べさせている。エビ商人のベラールさんの足には5ヶ月前から包帯が巻いてある。痛みがひどくなるとパラセタモールを飲む。手術をする必要があるが、お金がないので、このような状態のままだ。叔母のヌールジャハン・ベゴムさんが彼の面倒を見ている。いつまで物乞いをするのか、子供たちをどのように養うのかと聞くと、 ベラールさんの62歳になる叔母のヌール・ジャハンさんが答える。彼女は14の田んぼを持っていた。捨ててきた家のことを思うと泣けてしまうと言う。彼女は6人の子供の母親。いちばん上の子供を軍に殺された。ヌール・ジャハンさんによれば「その日、軍人たちは全ての男性を外に追いやった。私と娘、嫁、夫の姉妹などみんな部屋の中に座っていた。私は年寄りだが、軍の手を免れることができなかった。下の息子の嫁は特に美人だ。1人の兵士が見張り、もう1人が嫁をレイプした。昔、私はアウンサンスーチーの父親に投票するために遠くまで走ったことがあった。しかし何を得たと言うのか。私の孫たちは、そこで安全に暮らせるだろうか。それでも私は戻りたい。」 ヌール・ジャハンさんの息子の嫁にも娘が1人いる。もう少し大きくなれば嫁にやることを考えているという。
多くのことが起こった後も国に帰りたいと言う人達が居る。ミャンマーの135の少数民族の人々が皆、いつかは平等な権利を得ると彼らは夢見ている。子どもたちが自分たちと同じような人生を歩まないことを彼らは望んでいる。ヌルール・アロムさんもその1人だ。彼はブチドンの住民だった。医者だった父親と教員だった叔父と兄は、いろんな時に政府の役人にかり出された。しかし彼らは土を食べなければならないぐらい貧しかった。今回はさすがに耐え兼ねたという。 5歳の娘を連れてここに逃げてきた。ヌルール・アロムさんによれば、ミャンマーではイスラム教徒は5年生以上の教育を受ける機会がないという。あとはマドラサでの教育しかない。コミュニティーには教育を受けた人はほとんどいない。難民キャンプでも子供達の読み書きや教育の機会は少ない 。彼は自分の知っていることを娘に教えているが、その後どうなるかはわからないという。この人生は誰からも認められない苦悩の人生であることだけを彼は知っている。